サミュエル・ウルマンの伝記
ウルマン氏は
1840年にドイツにて誕生し、11歳のときに家族と共に米国のミシシッピー州にあるポート・ギブソンへと移り住みます。その後、短期間ですが南部連邦軍に加わり南北戦争で戦った後、彼は同じミシシッピー州のナンチェスと言う街に引っ越します。そして、この町で結婚した彼はビジネスマンとしてのキャリアを歩みだし、市議会議員に選出され、街の教育に教育委員会の一員として携わるようになるのです。1884
年、ウルマン氏は家族と共に、まだ設立間もないアラバマ州バーミングハム市に移り住みます。そして、すぐさまここでも市の教育委員会の委員に選出されます。彼は、
18年間にわたるバーミングハム教育委員会での働きにおいて、当時白人の子供たちだけしか受けられなかった教育を、黒人の子供たちも受けられるように改革するばかりではなく、数々の地域社会の福祉の働きをしつつ、バーミングハムのユダヤ教シナゴーグ、エマニュエル寺院で理事長を務め、さらには司教の働きまでこなすようになります。時には、当時の一般社会の流れに逆らうようなことをしつつも、彼はナンチェスとバーミングハムにおいて、地域社会に大きく貢献する働きをするのであります。彼は定年退職後、生涯を通して情熱を持ち続けた執筆活動に、本格的に力を注ぎますが、彼が好んで書いた詩と散文詩には、愛、自然、宗教、家族、友情、そして青春期など様々なテーマが取り上げられています。ウルマン氏が詩人として有名になった過程には、ダグラス・マッカーサー将軍が深くかかわっています。マッカーサー将軍は、ウルマン氏の散文詩の一つである「青春」をこよなく愛し、大戦後日本の東京において
GHQの指導者となったときに、「青春」の詩を額に入れて、自分のオフィスに飾り、また、多くのスピーチの中で、詩からの引用を用いるのであります。このことにより、多くの日本人がウルマン氏の散文詩「青春」に触れることになり、マッカーサー将軍同様にこの詩に感銘を受けるようになるのであります。この散文詩「青春」こそが、ウルマン氏に対する世間の関心をもたらしたことは、大変興味深いことであります。「青春」のメッセージとは、常に上を見上げ、自分の持つ理想に常に忠実であることを旨とすることであり、これこそ、正にウルマン氏の生涯を反映するものでもあるからであります。移民としてアメリカに移り住み、南部連邦軍の兵隊を通して、ビジネスマンとなり、そして最終的には地域社会に貢献する社会福祉者として生きたウルマン氏は、その死後においても、多くの人々に多大なる影響力を持っていると言えるでしょう